鮎川町
鮎川町は、古代より海運業が盛んで、江戸から明治期には、「北前船」の船主や乗務員が多数を占め、沿岸地区との交易が盛んであったと記されています。
鮎川町の山の手に位置する「加茂神社」には、当時の海運安全祈願の絵馬が多数奉納されていて、往時がしのばれています。
明治中期、松井千代松氏は耕地開懇の必要を強調し、4キロに及ぶ高山用水を完成させ、水田を開き村民の生活向上に貢献しました。
国見町
国見町の歴史は、約830年前、加賀の國「倶利伽羅峠の決戦」に敗れた平家軍の重臣一行が、この国見町に隠れ住んだのが集落の始まりです。
厳しい源氏の守護・地頭の探索の目を逃れ、特に鮎川浦の人々の協力で安住の地を得て、平和な歳月を送り今日に至っています。
明治末期、城崎彦五郎氏は公共奉仕の精神にて、多額の私財を投じて国見町の交通・産業の発展に貢献しました。
白浜町
白浜町は約400年前、戦国時代の後期、山陰地方を支配した大名尼子氏が毛利氏に滅ぼされた後、その一族が各地に四散し越前に渡来、小丹生町塩ケ浜から白浜町に定住しました。
漁業を中心とした白浜町民は信仰心篤く、神社・寺院を大切にしています。
当町では昭和30年代まで、青年は青年会館で宿泊し、日常生活から神仏を敬い、親に孝行、自分に与えられた仕事に励むよう、規律正しい共同生活を営んでいました。
大丹生町
大丹生町に関する文献や伝承には、平安中期 源満仲が越前の守となって来国、大丹生浦に閑居し「八幡神社」を寄進したと伝承されてます。
更に、江戸時代の「越前名蹟考」には、大丹生浦には15・6分の船着き場が有り、港を利用した船が人々の往来を盛んにし、文化導入の入り口であったと推測されます。
幕末以降、杉田七衛氏が北野に、明治末期には林武兵衛氏が向谷に、川上清蔵氏が片倉に用水を引いて開田事業を完成させ、村の発展に大きく貢献しました。
小丹生町
波静かな湾を抱く農漁村の小丹生町は、風光明媚な風土は人々の心を和ませる。また、古来から伝承の多い土地で、確かな記録文書はないが、逸話があります。
小丹生町は古くから廻船業との携わりがあり、近年に至っても世界を巡る海運業の従事者が多く、町内の春日神社には海上安全を祈願する多くの絵馬が掲げられています。
刀祢家の祖先は、継体天皇時代まで遡ると言われています。当家文書は「福井県史 資料編三 中世近一」に、漁業・海運・海難関係の文書74点が収載されています。
国見地区の行政区画制度の歴史
- 大化の新政
- 越前丹生郡の区画制度定まる
- 奈良時代
- 国見岳の地名がつけられる 泰澄大師 山頂にて修験される
- 江戸時代
- 鮎川、白浜、大丹生、小丹生、南菅生は福井藩領。国見町は幕府直轄となる
- 明治3年
- 国見町は本保県(本保は武生市本保)以外は福井県に所属
- 明治4年
- 国見地区5自治会 足羽県に所属
- 明治6年
- 国見地区5自治会 敦賀県に所属
- 明治9年
- 国見地区5自治会 石川県に所属
- 明治14年
- 2月7日国見地区5自治会 現在の福井県所属となる
- 明治17年
- 国見村総合役場 鮎川町に設ける
- 明治21年
- 町村制が制定され、南菅生自治会が鷹巣村に編入される
- 明治39年
- 国見村の坂井郡編入を県及び衆議院、貴族院に請願するも実現せず
- 昭和34年
- 当時の福井市長 熊谷太三郎氏の努力により福井市に合併する